おしっこ漏らす
いやー、酒飲んだ帰り道におしっこ漏らしてしまったよ。家まで我慢するのがどうでもよくなっちゃったよ。我慢したところで何もないなーって感じ。あきらめみたいなやつ。これは近い将来、まともな大人の体裁を保てないかもしれないね。まいったなあ。
今までの人生で考えてみても、おっしこ漏らしたことはなかった。小学生の時でも我慢できた。小学生より我慢がきかなくなってしまったか・・・
引き摺れ
失恋した時涙は出なかった。
涙で感情を心から出してはいけない。
胸にためろ、張り裂けそうな感情を。
もう失恋した時の苦しみの鮮度は失っている。正直、二カ月前より楽になっている。
この苦しみが無くなることは失恋する前の片思い中の無様な自分に戻ることである。
5年の想いが完全に完璧に無駄だったということである。
この失恋で変われなければ何が起こっても自分は変わることができないと思う。怖い。
私にはやることがあるはずだ。
見込みがなくても、やることがあるはずだ。
そのためにはこの苦しさをいつまでも無くしてはいけない。死ぬまで引き摺れ。
或る「小倉日記」伝
松本清張作。
この小説はとても好きな短編小説である。
文体も簡潔で好き。
簡単に書くと、生きる意義の話である。
主人公は、紛失した森鴎外の小倉時代3年間の日記の復元をする研究をする。
主人公は不具な体のため、自身の人生の誇りと目的をその研究に求める。
しかし、3年間の日記の復元をするという研究に人生をかける意義があるのか。主人公は悩みながら研究を進めるが、挫折して死ぬ。
私の頭の中で浮かぶ主人公の悩みながら研究を進める姿に、あがく姿に、貴いものを感じる。
正確には貴いとは違うかもしれない。
信じるに疑わしい自分自身と目的と状況の中でも、なお意思と希望を持つことの美しさと強さと苦しみをこの小説は現していると思うから私はとても好きだ。
仕事
仕事辞めたい。今まで仕事していて楽しいと思ったことは一瞬たりともない。
さらに、好きだった人も職場にいるのだ。時々その姿が目に入る。その姿をできることなら永久に見たくないし、考えたくもない。すごく嫌だ。
このまま働いたとして、単純計算で一年に500万稼ぐとして、60歳まで働いてあと25年、500万×25年=1億2500万のために私の人生の半分以上の時間を辛い仕事に捧げるのだ。うんざりする。他に働かなくてもいい上手い抜け道みたいのは無いものだろうか。
しかし、今更仕事辞めたとしても、私の能力では日雇いとかしかないだろう。今の仕事と比べれば時間当たりの金稼ぎの効率が悪くなる。
というわけで、仕事は辞めず、暫定的な手段として北の方に転勤する予定である。まあ、今の職場には二度と戻ってきたくないな。でも、いつか戻らざる得ないのだろうな。仕事辞められれば戻ることもないけど、辞める覚悟も、金を稼いでいく能力もないからな。
今までの35年間の私の人生では職場を自由を変えられる覚悟も能力も得ることができなかった。でも、こんな状況に甘んじる訳にはいかない。好きだった人の姿が目に入る今の職場で平気な顔して働くことは屈辱である。他で働く能力が無い為に仕事を辞められず、生活の為にこの屈辱を私は受け入れている。我が魂よ。今書いたことを明日も明後日もずっと覚えていろ。絶対に忘れるな。常に自分自身に対する怒りを忘れるな。無能が故に、怠惰な故に、不自由で無様な自分の姿を恥じろ。自由を欲しろ、自由を得るために努力しろ、あがけ。
今年よ、もう少し居てくれ 来年よ、どっかいけ
このブログで14程書いたが、今改めて読み返してみると、妬み、嫉み、ウンコといった内容が97%を占める、糞の香り漂うウンコブログである。
なぜ、我が人生の記録であるこのブログが自然にウンコになってしまうのだろうか。それは自分自身が妬み嫉妬が全開に溢れたウンコな脳みそと精神の持ち主であり、ウンコ色の瞳で人生を眺めている故であることが分かる。
しかし、ここで問題となるのが私のようなウンコ人間であっても、人並みの欲望と自意識を持ってしまうことである。自身と欲望、自意識とのミスマッチ。哀しいね。
私の欲望よ、自意識よ、町に落ちている犬のウンコを見習え。ウンコ達のように雨風にまみれて、ただただ町中を転がってアスファルトの上で土に戻るだ。ウンコにはウンコらしいふるまい方を。来年は町のウンコ達みたいにいこうじゃないか。
いや、しかし、本当はこんなウンコ人生は嫌だ。こんなウンコのまま2016年と別れたくない。2016年にとって私はウンコ的な印象しか残らないじゃないか。2016年よ、もう少しそばに居てくれ。このまま別れてしまうには辛すぎる。もう少し時間をくれれば、もう少しまともになるから。なお、2017年は来なくて結構だ。帰ってくれないか。
幻
5年間の片思いしている人が結婚していることを知ってから約一カ月経った現在、今でも辛い。なかなか痛みの鮮度が落ちない。
片思いの人を5年間毎日想った。あらゆる時に、あらゆる場所で好きな人の幻をみた。しかし、今では俺以外の男を愛している好きな人の幻をみる。俺こそが好きな人に愛されたかった。その瞬間が訪れるならば、その先が期待外れの地獄であっても生きていける。その幸運に報いるために生きられる。本当に心底からの願いだった。それが叶わなかった。
好きな人が俺ではない男といちゃついている幻は、時間が経つにつれ出てこなくなると期待しているが、未だにあらゆる場所にあらゆる時間に出てくる。俺に見せつけてくる。せめて、眠るときぐらいはそっとして置いてほしい、俺の精神よ。
そもそも好きな人とデートしたのが3回だけだ。それ以外はずっと好きな人の幻をみてきたのだ。付き合いは幻の方が圧倒的に長い。ずっと自覚もしていたが、きっと私が愛したのは幻の方だったのだろう。それでも、職場で好きな人の姿をちらっとでもみると胸が張り裂けそうになる。なんとか職場を変えたい。
まあ、ネットとかの情報によると3カ月くらい経つと失恋の症状が収まるみたいなので奥歯を噛みしめながら耐えようと思う。なあに、所詮は幻だ、なんとかなるだろう。
消えよ我が妄想、と童貞は言った
私は子供の時代から嫌なことがあればすぐ妄想の中に逃げこむ。
まあ、他の人もそうしているのかもしれないけど。
妄想の中で私はありえないほど成功し、ありえないほどモテる。
妄想が実現したことなど一度もない。
そんな陳腐な妄想で一瞬気分が良くなるのである。
でも妄想が去った後、嫌な現実が追いかけてきて必ず冷たい現実を叩き込んでいくのが定番である。
35年間この一連の動作を果てしなく繰り返していたが、もうやめようと思う。
妄想と冷たい現実のギャップが歳をとるほどに開いていっているのを感じるからだ。
ギャップが開くほどにダメージも深くなる。もう心が耐えられる余裕がない。
わが心よ。もういくら妄想しても逆転ホームランは打てない。
もういくらホームランを打っても勝てる見込みのないほど点差が開いているのだ。
バットを短く持って一点でも返していこうじゃないか。
わが心よ。ありえない成功を望むな。地道にいこう。
現実を受け入れることはそんなに悪いことじゃない。
現実をごまかしていく醜悪さよりずっといい。