12月24日
2016年12月24日午後9時17分現在、最高に苦しい。
今夜は日本中の童貞達も私と同じ様に胸を抉る様な苦しみを耐えているのだろうか。
失敗と悔恨を抱きしめているのだろうか。
どうか、日本中の童貞達に心安らかな夜を。生きるに値する朝を。
彼女がいない クリスマス死ね
彼女がいない、クリスマス死ね。ついでにバレンタインも死ね。このブログを国会で採り上げろ。すぐ採り上げて悪しき風習を止めさせろ。昨今、保育園の問題を政治家が採り上げているが、そもそも、保育園に子供を預けようとする連中なんて、みんなセックスしている。そんな社会的強者の意見なんて後回しにしろ。セックスしたことのない真の社会的弱者から救え。最優先事項でやれ。勿論、ここのクリスマスは日本特有の恋愛イベントとしてのクリスマスであって、キリスト教の神様の生誕を祝うクリスマスではない。キリスト教の信者の人たちも迷惑しているのではないかと思う。
もう、正直言ってクリスマスには精神的に耐えられない。今年のでぎりぎり限界、もう来年は無理だ。クリスマスは12月25日だっていうのに、12月1日からクリスマスソングが流れ、なんか店員にサンタ帽を被らせたりクリスマスムードを前面に押し出してくる。サンタ帽を被らせられる店員だって童貞がいるだろうし、心底そんな屈辱的な帽子をかぶりたくなかったはずだ。何十年も前から私を含め幾万の童貞が苦しみ、これからも果てしない数の童貞が心の中で血の涙を流すだろう。クリスマスを恋愛イベントとして広めたやつらは人間の感情を持っているのだろうか。どれだけの人間の心を苦しめたか理解しているのだろうか。もしかして、やつらは童貞を人間とカウントしていないのか。
そもそも、恋愛イベントとしてのクリスマスとかバレンタインとか、道徳的に正しいのか。彼女いるやつはもう日常からいい思いしているのだから、もういいじゃねえか。それ以上求めないでくれ。彼女がいないやつは365日嫌な思いをしているのだから、これ以上の苦痛を与えるのはやめてくれよ。人生に負けたのはもう十分理解しているから、もうやめてくれよ。そっとしておいてくれよ。これが正しいことなのか、人生の勝者により多く喜びを与え、人生の敗者により多くの苦痛を課すことが。とりあえず、優しいこととは思えない。
毎年、童貞達は恋愛イベントとしてのクリスマスを平然と行われることに反対できなかった。我々はあまりに無力なのである。権力はいつも童貞じゃない連中がもっている。しかし、我々童貞は、サンドバッグではない。殴られれば痛いと感じるし、悲しい行いをされれば涙を流す。明日かも何十年後かも分からないが、いつか必ず童貞たちが怒りと悲しみの声を挙げるだろう。それまでは、無力なアリの行列を無知な子供が踏み潰すような無慈悲なイベントを精々やっていればいい。
旅先の酒
私は普段はあんまり行かないが、一人旅だと居酒屋によく行く。そこで隣にいるおっさんとかと時々話す。おっさんのどんな話でも優しく聞こえ、どんなおっさんでも愛おしく感じる。この前なんておっさんから、「君は35歳で若いね、何でもできるね、羨ましい」っていわれてしまった。その上、俺が独身だと話すと、自分が好きになる人は、自分のことを好きになる人だから積極的に声をかけなきゃだめよとも言われた。ああ、心底好きだった人は自分のことは全く好きではなかったよ。
まあ、酒はやさしくて甘い。はちみつみたい。人生は糞だ。ずばりうんこだ。酒を飲むことはうんこに、はちみつコーティングをかけるようなものだ。酒を飲む生活は、はちみつうんこだ。外は甘く、中は苦く。酒を飲まない生活はシンプルなうんこだ。苦い。素材本来の味。うん、この味だね。私は、旅先で酒を飲む。
若者の恋愛離れ
若者の恋愛離れをしているというニュースを最近耳にする。しかし、実際のところ、恋愛という本能的なものは離れようがないと思う。恋愛は遺伝子の命令である。例えば、若者の食事離れをニュースで報じられれば信じるかという話である。そんな仙人みたいな若者がニュースになる程たくさんいるか。仙人ってバハムートドラグーンのエンディング後のビュウみたいなやつだぞ。
まあ、若者の片思い離れとかなら話は分かるがね。あんなものは辛いことだらけだ。
しかし、私を長年苦しめている恋愛というやつが若者から避けられているというニュースを聞くのは嬉しいものだ。例え、そのニュースが真実ではなくても。
恋愛なんて概念はもっと馬鹿にされて、つばを吐きを掛けられて、そこら辺の棒っきれでひっぱたかれていればいい。くそったれ。
夢
私の夢は、好きな人を見つけてその人と結婚することである。結婚はゴールではなく、スタートだろうといわれるが、私の人生にとっては結婚するだけで十分だ。それは生きててよかったと思える瞬間だ。その思い出だけで胸張って生きていける。しかし、この夢を叶える可能性は冷静に考えると恐ろしく低いものだ。1%位かな。残念ながら。99%は失敗に終わる人生、生きる希望が湧かない。
しかし、近年、AIやVRといった技術がニュースで取り上げられている。これらの技術は、いつの日か人工的に造ることができるプログラム的、もしくはロボット的な奥さんの誕生を期待させる。
この未来の人工奥さんに逢うことができる可能性は、上で私が挙げた1%の可能性よりもずっと高いものになるだろう。なにより時間が経てば経つほど、技術が発達し可能性が高くなる。時間が味方だ。私が60まで生きられればなんとかなんじゃないか。逆に人間の奥さんと結婚することは歳をとればとるほど厳しいものになる。時間が敵になってしまう。時間を敵にまわすことは生きるのを辛くさせる。
私や人間の奥さんは歳をとるほど、シワシワになる。人工の奥さんは歳をとるほど技術は進展し、美しく、賢くなる。将来、私が人工の奥さんと結婚する時、若くして人間の奥さんと結婚した連中は悔しがるだろう。なんで結婚してしまったのだろう。なんで我慢して、人工の奥さん誕生まで待てなかったのかと。今更、連中は人間の奥さんとは別れられない。私の人工の奥さんの体はツルツルで、頭もキレキレだ。連中の人間奥さんは私や連中と同じで体はシワシワで、頭はモワモワだ。
これは革命である。恋愛弱者が強者になり、強者は弱者になる。その時こそ私は人生に勝つのだ。ちなみに今現在、私は人生に惨敗している。
人工の奥さんははっきりいって、はちゃめちゃに期待している。人生の希望だ。生きる目的だ。AIとかVRとか未来の人工奥さんをつくる技術に関連した仕事をしたかった。素晴らしい仕事をしていると思う。まさに、夢をつくる仕事だ。
正直、人工の奥さんの体はあんまりこだわりがない。3次元の世界に来れるような動くダッチワイフみたいのは難しいのなら、こちらの意識を電脳に飛ばす方法でも良い。攻殻機動隊の中の世界みたいに、辛い現実に負けて苦悩のない電脳世界に逃げ込む人間になってもいい。電脳空間の中で終わらない映画を見ていたい。ああ、なんか疲れたなあ。
怒り
表立って言えないが、同僚とかが時々子供の話を俺にしてくるけど、正直子供の話聞くより、その同僚が朝、ケツからひり出したウンコの話を聞く方がマシだ。子供の写真見せられても、ただその同僚と自分の童貞人生の差をみせつけられて苦い思いしかない。何も反応できない。なんの言葉も浮かばない。ただこの話題が終わることを俯きながら願うだけだ。それに比べれば同僚が朝出したウンコの写真見せられた方がいい。私も「形も色もいい素敵なウンコですね。〇〇さん絶好調ですね、今度の昼飯カレーでも奢って下さいよ、ガハハ。ところでこのツブツブなんですかぁ?」とか言える。
まあ、ウンコの話するよりは黙っててもらった方がマシだがね。
結局言いたいことは、世の中の連中は私みたいな童貞に子供とか奥さんの話はするな、黙って俯いていろということである。
もし、沈黙が恐ければウンコの話でもしてろってことだ。聞いてやるよ。
童貞
夜、大学の時に一人でベットに眠っている自分を見ている夢を見た。なにかしようとしてなにもできなかったと毎晩思っていた時代である。まあ、今もそうだけど。
その夢から覚めた時、もう大学を卒業して10年経った事の絶望感、そして強烈な後悔を感じた。その後悔は卒論が上手くいかなかったことや、友達がほとんどおらずもっと学生らしい遊びをしたかったというものではない。それらはしょうがないと納得できるものだ。
別にいい。ただ、絶望し後悔すべきは彼女をつくろうともしなかったことである。そして、卒業から10年経った今まで彼女がいないことである。もうやり直しがきかないのである。何をしていたんだろうか。学生時代、他の人たちは盛んに交際していただろうに,
一体なにをしていたんだろうかと愕然とする。そして、自分の中で大きく硬くて冷たいものとしての童貞としての自覚ががっちりと存在していることを感じる。
そもそも、私の心の片隅で童貞はかっこいいものとして捉えている向きがある。もちろん、理性を働かせて、客観的に考えれば、童貞は私にとって人間的魅力の欠如と人生で何もしなかった証であり捨てるべきものである。しかし、私の中でこのかすかに残る童貞かっこいいと感じる感情はなんだろうか。幻想なのだろうと思う。ありのままの悲惨な現実を受け入れるのが耐えられない脳みそが童貞という観念さえほんの少しかっこいいと思わせるんだろう。
ただ、それが幻想で捨て去るものであったとしても、その童貞という観念を35年間抱きしめてきた自分にとっては愛おしい観念だと思っている。100点満点中0点の人生もこいつを抱えていれば28点位の人生を歩めるのではないかと思っている。すかんぴんの路上生活者もアルコールがなければやっていけない人もいるだろう。そのアルコールがどんなに低質で体に悪いものであっても。
今この瞬間のために、過去のすべてを捨てられなければ生きている価値がないというような文章を読んだことがある。まあ、分かる。でも、過去の辛い童貞経験と今まで抱きしめてきた幻想を捨て去って、明日から正常な恋愛経験積んだ連中に混じれというのか。あんまりにもやりきれない。でも、10年後の私に今の私を夢で見たとき後悔させないようにはしたい。あんな冷たい夢はたくさんだ。くそ、まいっちゃうなー。