人生半ばの童貞

36年のクソ人生を考える

孤独

 私は幸か不幸かあんまり孤独感を感じたことはない。

 高校卒業から一人暮らししているが、真っ暗な部屋に帰ることは安心するし、良く旅行に行くが一人が自由で心地よいし、物を食べるのも一人の方が食べ物の味に集中できると思っている。多くのことは一人の方が気を使わなくて集中することができると思っている。まー、結局、私は人に気を使いたくないのだ。気を使わなければいいのではとも思うが、人に対して気を使わないとの言う姿勢は嫌だ。昔の家族との生活が辛かった訳でもなく、ただただ一人向きの性分なのだろうとは思う。

 あと、もう一つ言わせてもらえば、大学の学食はほとんど一人で食べていたがあんまり気にならなかった。一人がかっこいいと思っているからだ。今も。

 

 では、いいじゃないか。35歳で今まで女性と付き合ったもなく結婚できないけど、したくもないんでしょと思われるかもしれないが、そうではない。できれば女性なんてどうでもいいという心境になりたいがなれない。付き合いたし、結婚したい。

 気持ちを分かち合いたいと思うのだ。美しい光景を見たとき、おいしいものを食べたとき、そして日常の何とも言えない感じを分かち合いたい。正直、その瞬間だけ女性がいればいい。その瞬間が寂しいのだ。別に一緒に生活しなくてもいい。

 

 人生のもやもやというか、なんとも言い難いこと、本質的な事を誰かと話したい気持ちは常にある。でも実際、友達と飲んでいる時、そういった人生のもやもや的な事を話そうとしても話せない。なんとも言葉で表現しようがない。結局、そういった言葉・映像・音で表現できないものを言葉・映像・音で表現しようとしている本や映画、音楽の話になってしまう。そして、その話は伝えたいこと、聞きたいことのカスのカスしかない内容の無いものになってしまう。虚しい。結局、私の本当に感じたことは伝えられない。私の中で生まれた感情もすぐに死んでしまうのだ。よく人は気持ちが分かり合えることはなく絶対的に孤独であるといわれるが、寂しいものだ。

 

 孤独な人は小説を読んで対話してみろよと聞くが、確かにそういった小説は人生のもやもやを言葉によって言葉以上のイメージの表現をしていると思う。でも、労力が大変。小説だったらあるイメージにたどり着くには長い文章を読む必要がある。詩なんて文章が短いからその分自分の求めている一遍の詩に会うために、千遍の詩を読まないといけない。あと、一方的な気がする。偉大な作者の話を一方的聞いてる気がする。対話している感じがしない。まあ、それでも小説は好きだから読むけど、寂しさは埋められない。

 

 本、映画、音楽なんでも愛が主題の作品が多くて童貞としては辛い。寂しい。人生には他にもあるだろう、愛以外にも。もう少し童貞に配慮してほしいものだ。