人生半ばの童貞

36年のクソ人生を考える

無能

 俺は今まで何もなしてこなかったし、できなかった。

 35歳、童貞の無能である。

 

 今まで、何かをしようとしたこともあったが、何かのアイデアをひらめくような優れた想像力や、何のアイデアも浮かばない状況でさらに考えることを耐えうるほどの精神の強さもなかった。結局、何もやり遂げられなかったし、残せなかった。ただ、後悔とやりきれなさのみが残った。人生半ばで振り返ってみても「失敗」の2文字しか浮かばない。アウトである。同じアウトなら、バットを振ってアウトになった方がましだったような気がする。ボールに当たらなくてもバットを振ろうと念じていたが、振れなかった。バットに当たってもボールが前に飛ぶイメージが全然ない。心の底ではあわよくば四球を狙っていた。振らなくてもよい人生、四球狙いの人生だ。でも、人生振り返ってみると結果は見逃し三振アウトである。

 

 俺は現在、通信制の大学院に行っているが、論文を書き上げて卒業できる自信は無い。論文を書くにあたり、過去の先行研究を調べるが調べれば調べるほど、自分が何かやれる余地がないことを、自分の無力さに絶望するのだ。詩や文章、絵を読んでも観ても、自分が後100回位死んだり生きたりしても絶対に書けない優れたものが数限りなくある。勿論、そんな傑作を書けるとも思っていないが、他の人にとっては何の関心を得るものでないゴミクズでもいいから、自分の人生の誇りになる何かをつくりたい。人生のよって立つ何かが、誇りが欲しい。でも、何かをしようとしても、何かつくろうとしても生活、仕事の疲れや、そもそも想像力の無さ、精神力の無さで結局何も生み出せないのではないか。少なくとも今まではそうだった。何かをつくり出せたとしても何の誇りにもならないゴミクズしかつくれそうにない。しかし、何もしない人生もきっと後悔とやるせなさしか残さない。何かしてもしなくても苦しみしかないのではないか。

 

 これからも、俺は無能にもかかわらず何かをしようとするだろう。無能でも誇りを持ちたい。でも、何かすると決まって自分の無能さをまざまざと知らされるのだ。35年間嫌というほど知った無能感は、今後も何かする度に、もしくは何もしなくとも、現れては俺を打ちのめすだろう。無能感。奴等は俺をもう十分打ちのめしているのに、さらに俺を打ちのめしに笑いながらやってくるのだ。あんまりに酷い話だ。俺は無能さと童貞と失敗をがっちりと抱きしめて生きて死ぬんだろう。